創業者 羽仁もと子・吉一の生涯
もと子は1873 年(明治6)9 月8 日、青森県八戸に誕生、16 歳の冬、念願が叶って一家の柱・祖父 忠隆につれられ上京。
1889 年、府立第一高女2年に編入、教会に通いはじめ、洗礼を受ける。1891 年 女学雑誌を熱心に読んでいたもと子は、明治女学校を知る。主筆で明治女学校校長の岩本善治氏の計らいで、入学許可と共に女学誌の仮名つけの仕事をもらい、寄宿料に当てた。2回目の夏休み、郷里に帰りそのまま教職に就き、恋愛の相手と結婚へ。しかし半年で離婚。もと子は「本当に自分の無力を痛感した半年であった。わたしは死んだ気になって私の中にある愛をすてることを決心したのである。決然と自分のより大切な道を選んだあの時、私はほんとうにけなげそのものであった」と著作集『半生を語る』に記す。
再び上京、小学校の教職に就くが、望みは書くことだった。1897 年報知新聞社の校正係の募集に応募、正確な校正が編輯長の田川大吉に認められて、校正係に。社主の三木善八(新聞界の名将)の称賛をも得、念願の記者となる。
吉一は、1880年(明治13)5月1日、三田尻(現・山口県防府)に生まれる。華浦小学校、周陽学舎(現・県立防府高校)に学ぶ。漢学者広瀬淡窓の孫弟子が学長であり、淡窓らの影響を強く受ける。中退して上京、政治家矢野龍渓の書生となる。1900年、もと子の入社から3年後に、吉一は報知新聞社政治記者となる。
1901年二人は結婚。退職し、吉一は単身新潟・高田新聞社に移る。ここからはじまる夫妻の事業に、吉一の10代の勉学と思想形成が大きく寄与する。
1903年(明治36)ふたりは同じ境遇の若い家庭にむけて、家庭生活誌『家庭之友』を創刊、世と人に語りはじめた。もと子は書き、吉一は一時は電報新聞の編集長を務めながら、経営にあたる。現在の『婦人之友』の前身『家庭之友』である。創刊の前日、長女(説子)誕生。
もと子は著書『半生を語る』の中、「回顧と展望」に「私たちの家庭生活は仕事の中心点であり、仕事は家庭生活の延長である。二つのものが一つになって分かれ目がない。そこに私たちの事業の特色も家庭の特色もあることを感謝する。ここに来る道筋は険しくても導かれて私たちの置かれたこの場所こそ、ほんとうに私たちのものであった」と書いている。
1905年二女(凉子)を授かるが、肺炎のため2歳足らずの生涯となる。「天国において再会の日のために、どうしても天国を得なくてはならない」と、羽仁夫妻は想う。
1908年羽仁夫妻は『家庭之友』の版元・内外出版から独立。誌名『婦人之友』の出版とともに、社名も婦人之友社とする。
1909年三女(恵子)が誕生(二代目自由学園長)。三女が小学生の時に、よい学校がほしいと思うようになり、1921年小学校を卒業する年、自由学園を創立。時を経て一貫校となる。
1927年(昭和2)羽仁もと子著作集の刊行を契機に、『婦人之友』読者がつくる「全国友の会」が1930年に成立。
婦人之友社が母体となり、自由学園と全国友の会との三つの団体は、それぞれの特色を活かしつつ、現在も三者一体となって活動をつづけている。
時は経ち、1955年(昭30)10月26日、羽仁吉一急逝(75歳)。『婦人之友』12月号のため、蝋山正道氏(政治評論家)との対談を終えた翌朝のことであった。もと子は『婦人之友』の巻頭言に「『私』が信じていたものは、年の少ないもの元気なものは、より長く生きるというわれわれ人間の常識であった・・・」という深い失望と哀しみを述懐する。そして、自身が天に召されるちょうど一年前、1956年4月7日付けで、「たましいの微笑」を、やはり『婦人之友』の巻頭言に絶筆として残した。1957年(昭32)4月7日、もと子はやすらかに召された(83歳)。